建造物

 

●阿弥陀堂 あみだどう (平成20年4月/国指定重要文化財)

 

 文禄2年(1593年)中興道残上人が一乗谷から移築したもので、建築の様式も古く、国の重要文化財に指定されている。(前身の建物は 室町時代建立。)入母屋造瓦葺き、一重裳階付き。

 お堂の二重屋根の間に東山天皇の勅命による武内二品良尚親王筆の西福寺の額を掲ぐ。

 御本尊は、平重盛公の御持仏であって天台宗第4祖慈覚大師(円仁)御作の阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊仏である。

 

 戦国時代の荒廃の後、西福寺の復興が始まったが、その最も早い時期に建立されたのが阿弥陀堂と考えられる。本屋上半分は室町時代に遡る禅宗様の単層三間堂で、西福寺と朝倉氏の深い縁により一乗谷から西福寺に譲り受けた。


 西福寺に移した際に、現在の内陣菱欄間鴨居の位置で全ての柱を継足し、四周に裳階を附して三間裳階付仏堂になった。よって「西福寺阿弥陀堂」としての実質的な建立年はこの年とする。


 それから1世紀半を経た延享4年(1747年)に、大規模な修理があり、屋根は柿葺から桟瓦葺に変わった。また、向拝も造り直した。さらに半世紀を経た文化年間(1804~1817年)に「御影堂」の建設に伴い現在地へ曳家された。

 三間裳階付仏堂、入母屋造、桟瓦葺。正面に一間向拝、背面に軒支柱を立て巾五間の葺下しを設ける、槌破風付。桟瓦葺。

 

 

●四修廊下 ししゅうろうか (平成20年4月/国指定重要文化財)

 

 

 御影堂から阿弥陀堂へ渡る回廊で、念仏行者が極楽浄土へ往生する姿を再現している、非常に珍しい構造である。

 阿弥陀如来の来迎いただき、雲上を通って浄土に辿り、浄土庭園の池上を歩み行くのである。浄土経典を忠実に再現した構造は、日本全国でもここ西福寺以外に例を見ない貴重な構造物である。

 

 名勝庭園の一部に含まれる建物。回廊、渡廊下とも呼ぶ。御影堂と一連に建立された。当初は柿葺。3段からなる庭園の滝と、4曲に折れた廊下を、浄土宗の教え「三心四修」になぞらえて大切にしている。第44世卍翁は大原山十二勝として「三心瀧」と「四修廊」を挙げている。簡素ながら西福寺伽藍の一つの顔。

 渡廊下は、浄土念仏の心構えとして教えられた四修行法にちなみ四修廊下とよばれる。3箇所の折れ曲がりのある廊下で、阿弥陀堂から御影堂への廊下であると同時に庭園景観の一部として構成される建物で、阿弥陀堂の入側廊下となっている。

 桁行折曲り14間、梁間1間、高床式。「上廊下」は西端寄棟造、東端向唐破風造、桟瓦葺。西端部に金毘羅権現の祭壇を造りつける。「下廊下」は寄棟造、北端は「上廊下」側面に接続し、南端は「阿弥陀堂」裳階に接続する。

 

 

  

●書 院 しょいん (平成20年4月/国指定重要文化財)

 

 慶長年間(1596~1615年)福井城主秀康公の寄付で、天井は同2代忠直公の施工で、元禄2年建て替えられたと伝う。特に鎮火点にありと伝えられ、方丈の間という。一の間から三の間、仏間がある。昭和58年5月皇太子浩宮殿下の御来駕の際、御進講が行われたことから、一の間は「御進講の間」とも呼ばれる。襖には前衛書家千葉半厓氏の「功徳荘厳」「散華」が書かれ、仏間には浄土三部経が紺地に金字で書かれている。

 

 「書院」は名勝に指定された庭園の一部に含まれている。境内の北西に位置し、名勝庭園に面して建つ、桁行6間半、梁間9間(当初は8間)、切妻造、こけら形銅板葺(当初はこけら葺)の建物で、南側に庫裏が接続する。書院は慶長年間に結城秀康公が発願し、天井などを松平忠直が施工し完成させた。発見された棟札により、延宝8年(1680年)9月に半造作、天和3年(1683年)11月に完成したことが判明した。 
 県内に類例のない二列二室の間取りを持ち、全体に数寄屋風の要素を取り入れながらも天井を高くし、格式を重視した意匠を持つ。

 桁行6間半、梁間9間、切妻造、妻入り、柿形銅板葺、北面。北側に大庇付、一軒疎垂木、柿形銅板葺。東側に小庇付。

  

 

●御影堂 みえいどう (平成20年4月/国指定重要文化財)

 

 

 本堂、大殿ともいう。

 本山造りの規模の大きな、堂々たる堂姿は県下に類を見ない。

 圓光大師「法然上人」71才等身大の木像を安置し、一刀十念の御自作と伝えられる。

 文化8年(1811年)3月再建落成す。

 御拝正面に掲げる大原山の額は、東山天皇の勅命によって竹内宮二品良尚親王のお筆で、もと三門にあったが焼失し、昭和24年(1949年)、原本により再成せられる。

 昭和58年(1984年)5月10日、浩宮徳仁殿下お成りを頂く。

 

 

 

 

 

 

 

 

●三 門 さんもん

 

 元禄2年(1689年)第27代了長上人重層式楼門を再建されたが、昭和21年(1946年)5月46代の時焼失、昭和44年(1969年)第49代證誉上人の発願により昭和52年(1977年)8月鉄筋コンクリート造りにて竣工、楼上に馬堀喜孝法眼筆、釈迦・十六羅漢、並に法然上人二十五霊場画を安置す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●総 門(敦賀市指定有形文化財)

  大門ともいう。寛永年間(1661~1673年)、立石の信徒が寄進したもので、1本の木で建てたと寺誌に記載されている。

 

 

●華頂門 かちょうもん(敦賀市指定有形文化財)

  総本山知恩院華頂宮門跡の表門が、華頂学園校舎新築の為、撤去されたものを昭和44年(1969年)当山に移築された。

 

 

●瑞芳軒 ずいほうけん

  明治44年(1911年)、43代善誉芳淳上人が圓光大師700年御忌記念に建設された檀信徒の集会所で、瑞芳軒という。

 

 

●大玄関

  文政4年の再建で、弘通殿の額は知恩院71代万誉大僧正が円光大師650年忌に際し、

 青蓮院門跡の書を寄贈せられたので弘通の間という。

 

 

●念仏堂

 一名納骨堂といい、開山良如上人の御廟所で各宗檀信徒の納骨所となっている。

開山上人墓石上に阿弥陀如来像を安置する。

お厨子両側の宅磨方眼筆による25菩薩来迎図は有名である。

 

 

●白狐祀 ●秋葉祀

 ともに御影堂の後ろに奉祀す。



 

●百万遍大数珠

  御影堂再建について徳本上人が勧進のため来錫せられ、後関東へ向かわせらるるに際し、

お別れの別時念仏を勤められた名残りの大数珠である。

 

 

 

●金毘羅明神

 御影堂建立の際、河野村赤萩八幡神社の御神木奉納にあたり、河野港より筏にて運搬の折り、

海上安全輸送を記念して勧請した金毘羅明神を四修廊下に祀ってある。

仏教に祀られている御神体として霊験あらたかだと信仰を集めている。

 

 

 

●鐘楼堂(敦賀市指定有形文化財)

 御影堂左前方にある。安永年間の建立であり、大寺らしい風格がある。

鐘堂は安永年間の乾隆であるが、第二次世界大戦で徴用され、

昭和45年当山開創600年を記念して当山49世證譽上人により再鋳された、

450貫の大梵鐘である。

 

 

 

●宝筐印塔

 お経を奉納することは大功徳であるが、一般の人では一切経を収蔵する堂を建てることは困難なので、

簡易な石造のものを宝筐印塔という。

 宝塔は文化年間、阿曽金井源兵衛氏の一建立で壮大な石塔である。

 

 

 

●舎利如来堂(骨仏)

 納骨の寺として開基以来信仰されてきた西福寺であるが、当山49世證誉上人が発願、

昭和46年、彫刻家 今村輝久氏により第1体目阿弥陀如来像を奉造。

以来10年ごとに1体の阿弥陀如来像が造立されている。

宗派を問わず納骨ができ、現世に阿弥陀如来様とご先祖様の御加護がいただけると

全国各地から参詣が後を絶たない。

 

 

 

●曽良文学碑

 芭蕉の弟子・森川許六が旅姿の芭蕉と曽良を描いた「芭蕉行脚図」(元禄6年5月作製)と、

曽良が書いた「曽良随行日記」の原本の一節を刻んでいる。

 その一節は、曽良が元禄2年8月10日、西福寺に立ち寄ったくだり。

近年、西福寺では命日の5月22日に「五月雨忌」が営まれている。

 

 

 

 

 

 

●弁財天堂

 宝物殿の隣に祀り、竹生島に模して造られたもので、雨ごい、お産等に霊験があり、参詣者多し。