今月の言葉(令和5年5月)

大原山西福寺 第51世 二橋 信玄より

【令和5年5月】

   

「四馬のたとえ」

 

 お釈迦様は、「この世に尊い人として生かされている私どもは、佛の縁に少しでも早く出会い、救いに目覚めることが大切です」と説かれておられます。


 お釈迦様は、佛の縁に出会う事の大切さを、お経の中で「四馬のたとえ」、四頭の馬のたとえ、として説かれております。
馬は頭が良く利口で、温厚で働き者だと言われます。
オドオドしながら馬に乗ろうとすると、馬はその人の言うことを聞かないといいます。人の心を見抜く能力を持っているんですね。


 ここに、4頭の馬がいました。
第一の馬は、ムチの影を見ただけで、乗り手の気持ちを察して走り出す馬。
第二の馬は、ムチで叩かれて、皮膚に痛みを感じて走り出す馬。
第三の馬は、ムチで叩かれても走り出さず、肉に触れて痛みを感じて走り出す馬。
第四の馬は、それでも走り出さず、遂に骨に触れて痛みを感じて走り出す馬。
四種類居ると示しておられます。


 お釈迦さまは、この世に命を頂いたものは、皆、生老病死の四苦から逃れることは出来ない。生まれる苦しみを受けた者は、老いる苦しみ、病の苦しみ、そして、必ず死がやってくる。誰も逃れることが出来ない定めであり、その事に目覚めて、一刻も早く諸行無常の理りを自覚せよと説かれています。


 第一の馬は、生老病死の生を説かれただけで、佛の教えに従う人で、流れる水、降る雪の消えゆく様子などからでも、世の移ろいゆく現実世界に目覚める人の居る事を示されており、

 第二の馬は、生老病死の生と老を説かれて、佛の教えに従う人の事で、知人友人の訃報に触れて、この世の無常を知る人。
 第三の馬は、生老病死の生と老と病を説かれて、佛の教えに従う人の事で、父母や兄弟姉妹、夫や妻、子などの肉親との永久の別れに直面して初めて、生ある者は、必ず死有りと言う真実に目覚める人。
 第四の馬は、生老病死の生と老と病と死の全部を説かれて、佛の教えに従う人
の事で、自分自身が生死の境に立たされて、人生の本当の苦しみは何であるの
かを知る人。


 如何でしょうか、人の心、生き様を馬に例えられているのです。
1から4までの馬が居て、佛の縁に出会う4通りの気づき方があると説いておられますが、優劣を付けておられるのではないということです。
 早く気づく人もあれば、遅い人もあります。ただご縁を頂いた時に如何に目覚めるかということなんですね。
 つまり、佛の縁を大事な縁として、正しく頂戴することができる生き方をしなければならないという事です。

 

 
 お釈迦様は、「縁無き衆生は度し難し」と申されました。ここでいう「縁」とは仏との縁であり、「衆生」とは人々のことで、「度」とは、お浄土に渡るの意味で、つまり救われるということです。
 如何に慈悲を説く佛であっても、佛の教えを信じないものは救えないし、救いようがない、という意味です。また、いくら教えても聞く耳をもたない者も困ったものです。

  

 素直に、お念佛を称えられない人、寺や道端のお地蔵様の前を通っても、知らん顔で合掌もせず、拝むことの出来ない人。お家のお仏壇の花が枯れていても平気な人、埃まみれでも知らん顔の人。我が家の先祖、亡き父母の供養を怠る者も、縁無き衆生になるかもしれませんね。


 


2023年5月1日 

二橋 信玄 (大原山西福寺 第51世)