法然上人 一刀十念御自作座像(西福寺御影堂御本尊)
【令和7年9月】
『先立つ子は善知識』
この世の中で、大事な子供に先立たれる事ほど悲しい思いはないでしょう。悲しみに打ちひしがれて、生きる意欲さえ失う親もいます。祖父母にとってもその悲しみは同じことでしょう。
昔から誰言うことは無しに、親より先に逝った子は、自分の死によって親を悲しませたのだから、親不孝の罪を犯したことになる。だから三途の川を渡れないと言う。そしてその罪の懺悔が故に、三途の川の岸辺(賽の河原)に自らの手で石を積むけれど、それを鬼が鉄棒で打ちこわし、子供たちは鬼の責め苦を受けると言う。何と無慈悲な事でしょうか・・・
『賽の河原の地蔵和讃』の一節に
賽の河原に集まりて 父上恋し母恋しと 河原の石を取り集め
是にて回向の塔を積む 娑婆に残りし父母は
只明け暮れの嘆きには むごや悲しやふびんやと・・
親の嘆きは汝らが 苦患を受くる種となる
その時能化の地蔵尊・・・汝ら命短くて 冥途の旅に来たるなり
我を冥途の父母と 思うて明け暮れ頼めよと
幼きものを御衣の 裳の内に掻き入れて 憐れみ給うぞ有り難き
未だ歩まぬ嬰児を錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲の御膚に
抱き抱えて撫で擦り 憐れみ給うぞ有り難き
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ・・・・。
大事な事は、子が亡くなられた事は身を削られるが如く辛く悲しいことですが、『賽の河原の地蔵和讃』では、先ず子供たちに、親を泣かせた罪を問われているのです。だから、親が嘆けば嘆くほど、子供の罪は大きくなるのです。親が泣き続けるかぎり、子供たちは鬼にいじめられるのです。
諸行無常・生老病死は世のならい。生を受けた者は、老病死から誰も逃れる事は出来ず。早く逝った子を、忘れなさいと言うのじゃない。これも受けねばならぬ縁だと、許してあげる事です。残りし親が涙をぬぐい、亡き子の菩提を弔ってあげる事で、亡き子は救われるのです。その時子供たちの罪が消えるのです。
そして、地蔵菩薩が必ず救い取って阿弥陀佛のお浄土に送り届けてくださるのです。後は佛に全て任せたらいいのです。
『先立つ子は善知識』と言います。善知識とは、佛法を教え佛道に導いてくれる人のことであり、師匠や、佛道修行を励ましてくれる先輩・同志などを言います。
親より先に亡くなった子は、自分の死によって親を悲しませた事は事実なれど、残された親や親族に、生命のはかなさ、つまり死とは何か、生きるとは何かを身を持って教えてくれているのです。更に先だったこの子が往生出来ますようにと、親に手を合わせて拝む事を教えてくれているのです。今まで一度も佛を願った事もないこの私に、佛の救いを信じ願わせてくれているのです。何よりも南無阿弥陀佛と、お念佛を称えさせてくれているのです。
佛の救いをひたすら信じ、ただ口に南無阿弥陀佛と称えたならば、阿弥陀佛は必ず救いとってくださるのです。
私には先だった我が子を救う力は何にも有りませんが、阿弥陀佛はお念佛を称えた私を救うてくださるのです。阿弥陀さまどうぞ私を救うが如く哀れはかなく逝った我が子を救うて頂きたいと、亡き子の生命となって、ただひたすらにお念佛を称えることです。
手を合わす 事さえ知らず 逝きし子に 母が手向けの 南無阿弥陀佛
お念佛を称える中に、諸行無常も受けねば成らぬ縁として素直に受け取ってゆく力がわいてくるのです。
どんなに辛い悲しい事に出会ったとしても、難儀もお陰と噛み締めて、お念佛の中に、今を力強く生き生かさせていただきましょう
2025年9月1日
二橋 信玄 (大原山西福寺 第51世)
※【今月の言葉】の表題を【今月の説法獅子吼(せっぽう ししく)】に変更しました。
2021年(令和3年)10月より、毎月1日に掲載しています。






